飛鳥時代〜奈良・平安時代にかけて須恵器をはじめ鴟尾(しび)など各種の陶器が焼かれていた寒風一帯の古窯跡群は、愛知県の猿投窯(さなげがま)に匹敵する西日本有数の須恵器窯で、その昔、朝廷へ陶器を調貢する六国の一つにあげられた備前国の生産地でありました。
■ 備前焼のルーツ
寒風古窯跡群は、牛窓町・邑久町・長船町の旧邑久郡一帯に広く分布する邑久古窯跡群の一つであり、長船町の木鍋山窯跡が一番古く(今から約1450年前)、ここから南へと窯が移動して、一番南に位置するのが寒風古窯跡群になります。寒風古窯跡群の後は、ふたたび窯が北に移動し、備前市の伊部で「備前焼」に発展します。このため、邑久古窯跡群は、「備前焼のルーツ」といわれています。
寒風古窯跡群の中心は牛窓町長浜の低丘陵に所在する3ケ所(計4基)の窯跡群で南に面する旧海岸線から、1.3キロメートル程北に位置したところにあります。
窯は、現在のところ4基見つかっておりますが、周辺には須恵器がまだ落ちている箇所があり、さらに増える可能性があります。窯は山の斜面にトンネルを掘って造られ、大きさが長さ5m以上、幅約2m、高さ1m以上の登り窯です。
窯がある斜面の下には、「灰原」と呼ばれる、焼いているときに割れたり、歪んだりして使えなくなった須恵器が燃やされた燃料の薪の灰とともに捨てられたところがあります。この壊れた須恵器が見つかったことから寒風に古い窯があることがわかりました。
昭和の初期より地元の時実默水(ときざねもくすい)氏により、膨大な数の多種多様の須恵器が採集されており、その資料の多くは現在、吉備考古館、牛窓町歴史民俗資料館、寒風陶芸会館に保管展示されています。
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■ 須恵器とは?
古墳時代中頃(約1600年前)に朝鮮半島から渡来した新しい技術で造られた器です。ろくろで整形し、素焼きではなく登り窯を使って還元焔(酸素が十分にない状態の炎)で焼かれるため灰色になり、また、高温(約1000℃。それまでは、野焼きで800℃)で焼かれるため硬く焼きしまり、水を入れても漏れないため非常に重宝されました。このため、官営の須恵器窯が大阪で操業され、大量に生産されます。その後技術が広まり、日本各地で窯が築かれることになります。
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