■ 国指定史跡 「寒風古窯跡群」
寒風古窯跡群(さぶかぜこようせきぐん)は、今から1400年~1300年前に「須恵器」と呼ばれる陶器を焼いた跡があるところです。
寒風古窯跡群は次のような遺跡です。
時實黙水(本名:和一)さんです。
黙水さんは、明治29年(1896)4月29日、地元長浜村(現:瀬戸内市牛窓町長浜)に生まれました。昭和2年(1927)に寒風で須恵器を採集したことから土器に興味をもち、勉強して知識を深め、邑久古窯跡群などを訪ね歩いて土器などを集めました。そして、その成果を考古学専門の機関誌『吉備考古』に発表をしたり、自分で資料図録『オクノカマアト』(全5冊)の出版をしました。黙水さんの集めた「時實コレクション」と言われる資料には、出土した地番・深さ・発見年月日などがしっかり墨で書かれており、資料の学術性を高めています。
黙水さんは、平成5年6月13日、享年96歳で亡くなられました。寒風陶芸会館の中庭には黙水さんの功績を讃え、長年の努力に感謝の意をこめた備前焼の陶像が建てられています。
現在、寒風古窯跡群が国指定史跡という価値が認められ、大切に保存されてきたのは黙水さんの努力によるものです。


須恵器という焼き物を焼いていました。
窯で焼かれていたのは青灰色をした須恵器と呼ばれる焼き物です。さまざまな種類の器など焼いていましたが、特に多く焼かれていたのは、食物や供え物を盛り付ける「杯」、水やお酒などの液体や米や果実などの固形物を貯える「甕」です。このほかに、「高杯」「はそう」「平瓶」「皿」「盤」「長頸壺」「短頸壺」「鉢」などが焼かれました。特にめずらしいものでは、焼き物の棺桶である「陶棺」、寺院の屋根に飾られる「鴟尾」、役所など文字を書く所で使われる「硯」などが焼かれていました。寒風古窯跡群の「陶棺」は、ふたが家の屋根のような形をしており、多くが岡山県南部の古墳で使用された地域色の強いものです。「鴟尾」は岡山市や大阪府の寺から似たひれの模様があるものが見つかっています。
また、須恵器の表面に文字を刻んだものがあります。「大□」(□は皮か?)や「上」などありますが、どんな意味があったかはよく分かっていません。
朝鮮半島から伝わった新しい技術で焼かれた焼き物です。
須恵器は古墳時代中頃(およそ1,600年前)、朝鮮半島から日本にやって来た渡来人技術者により伝えられた焼き物です。今までの縄文土器から続く弥生式土器や土師器などではなかった新しい技術が使われています。
第1にロクロの使用です。ロクロを使用することにより、効率的で大きさの整った器を作ることができるようになりました。
第2に窯を使用することです。窯を使用することにより、1,000度以上の高温で焼き締めることができ、水漏れが少ない、硬い焼き物が作れるようになりました。
須恵器が青灰色をしているのは、焼いている最後に窯を塞いでしまうため、酸素不足で粘土に含まれる酸化鉄が還元されるからです。この「還元焔焼成」を利用した須恵器は、化学反応を巧みに操作する「古代のハイテク技術製品」と言われています。
また、須恵器に緑色の釉薬がかかったように見えるのは、薪の燃えた灰が須恵器にかかって溶けて自然にできたものです。
科学の力や特徴から見分けることができます。
寒風古窯跡で焼かれた時、都に運ばれた須恵器の大きな産地は、陶邑産(大阪府)、尾張産(愛知県)、美濃産(岐阜県)などがありました。須恵器をよく観察すると、寒風古窯跡群のものは陶邑のものより白っぽい色をしており、美濃と比べると黒い粒(雲母)の入る量などが異なることが分かります。また、科学の力を使って須恵器の土の成分を調べると違いがでてきて、どこで焼いた須恵器か分けることができます。
しかし、寒風古窯跡群で焼いたと特定するのは難しいのです。科学の力をもってしても、邑久古窯跡群の中の窯は見分けることができていません。ですから寒風古窯跡群から見つかった須恵器とまったく同じ模様や特徴がないと分かりません。
寒風古窯跡群で焼かれた須恵器は、丁寧な作りで、白っぽい色に自然の緑色の釉が流れた美しいものです。きっと都でも人気があったことでしょう。
「土」「薪」「運び出す道」があったから。
窯を築く条件は、焼き物のもとになる「土」(粘土)があること、そして窯を焚く薪があることといわれています。寒風古窯跡群がある所は今でも粘土が採れ、山が周囲にあるので薪も豊富にあったことでしょう。しかし、土と薪は使い続ければ何年、何十年かすればなくなります。邑久古窯跡群が瀬戸内市と備前市の広い範囲に窯を移動して築くのはこのためです。では、なぜ寒風古窯跡群は100年間もの長い間にわたって窯があったのでしょう。
それは、寒風古窯跡群が出来た須恵器を運び出すのに便利であったからといわれています。寒風古窯跡群から南の谷を1㎞も行かない所に当時海であった錦海湾があり、そこで焼いた須恵器を船に乗せれば、瀬戸内海を通じて奈良の都に運ぶことができたのでしょう。
寒風古窯跡群で須恵器が焼かれなくなると、窯は北へ移動し、奈良時代には佐山(備前市)、平安時代前半には福谷(瀬戸内市)、平安時代後半には磯上(瀬戸内市)へ生産の中心が移動していきます。そして、平安時代末には伊部(備前市)に大きく移動し生産地を集中させ、この段階で伊部焼とも呼ばれる備前焼の生産が開始されたと考えられています。このため、寒風古窯跡群を含む邑久古窯跡群の須恵器は備前焼のルーツといわれています。
現在、備前焼のイメージは褐色ですが、褐色の陶器として完成するのは鎌倉時代後半~終末頃からであり、生産開始当時の備前焼は須恵器と同じ灰色の焼き上がりでした。備前焼は須恵器からつながっている焼き物であることがうかがえます。